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マス大山公式サイト

マス大山の歴史

極真空手の創始者、マス大山の世界に足を踏み入れてみませんか?年表では、マス大山が歩んできた道のりの中で重要な出来事や功績を紹介しています。マス大山を武道史に残る伝説にした決定的瞬間を探ってみましょう。マス大山の強さ、鍛錬、忍耐の遺産からインスピレーションを得てください。

年代記

19236月4日

(新暦7月27日)父・崔承玄、母・芙蓉の4男として、この世に生を受ける。

1931

満州の姉の家が経営している牧場に預けられる、
ここで働いていた武術の達人「李相志」から「借力」という拳法を習う。

4月1937

山梨航空技術学校に入学。

4月1946

早稲田大学体育学科に入学。
この頃、藤巻照子氏(後の智弥子夫人)と出会う。

10月1946

早稲田大学を中退して身延山に入山、武道精進に励む。

9月1947

京都丸山公会堂で開かれた戦後初の全日本空手道選手権に出場して優勝。

4月1948

空手に生涯を懸ける決意をし、清澄山(千葉県安房郡)に入山。
18ヵ月の修行を行う。

11月1950

千葉の館山で牛と対決。食肉処理場の側に住居し、牛の角を折る修練を積む。47頭の牛の角を折り、うち4頭は一撃で即死。

5月1951

米軍の要請に応えて進駐軍の兵士たちに空手を指導。
座間、府中、立川、横須賀、所沢、横田、横浜などの基地に出向いて教える。

7月1951

牛との闘いの体験から、組み技を学ぶ必要性を感じ、
阿佐ヶ谷の曽根道場で柔道の修業を開始。講道館四段を許された。

3月1952

シカゴの空手協会から招かれて渡米。全米32カ所で11ヵ月にわたり、
演武と空手指導を行う。この間真剣勝負7回に及ぶ。

4月1953

アメリカ再訪。シカゴで牛と格闘。手刀で牛の角を折り、猛牛を一撃で倒したことによって空手の威力に評判を博す。

1月1954

アメリカから帰国後、報道関係者の要請で、牛と格闘するドキュメンタリー映画
「猛牛と闘う空手」を撮影。450kg もある牡牛との死闘は30分間続いた。

4月1954

東京・目白の焼け跡の野天道場に大山道場の看板が正式に出される。

2月1955

アメリカを再訪。クライスラー社社長ベップフォード・デイビーとともに南米、ヨーロッパを回る。プロレス他、各界の格闘技と対決。ビールビン切りのデモンストレーションが人気を呼び、「ゴッド・ハンド」と呼ばれる。

6月1956

立教大学裏の古いバレエスタジオ跡を借りて、大山道場として稽古を始める。
総数300人強。この道場が後の極真会として発足。

1953年3月~6月

ヨーロッパ・アメリカ遠征。

7月1957

メキシコシティーで闘牛と闘う。大山道場の門下生が700人を上回る。

1月1958

海外からの要望にこたえて「What Is Karate?」を出版。
日本初の英文による空手書が海外での大ベストセラーになる。
50万部発行。ニューヨークに渡る。

9月1958

ワシントンD.C.のFBI本部に招かれ、空手指導およびデモンストレーションを行なう。

10月1958

ウエストポイント陸軍士官学校に招かれ、空手指導およびデモンストレーションを行なう。

7月1959

第1回全ハワイ空手道選手権大会を開く。
審判長をつとめ、デモンストレーションを行う。アメリカからヨーロッパへ遠征。

1960

幾度かの海外遠征経て、この年にはアメリカ、ヨーロッパなど16カ国に合計72の支部が発足。

1962

この年に日本国籍に帰化する。

1963

アメリカ、ヨーロッパ、南アフリカ各地を回る。大山道場を現在の豊島区西池袋に移し、国際空手道連盟極真会館総本部の建設に着手。

1月1964

日本空手道に対し、タイ式ボクシングが挑戦したが邪道として受けなかったので大山道場が受けて立つ。大沢昇ら3人がバンコクに渡り、3戦2勝。

4月1964

国際空手道連盟極真会館の会長に佐藤栄作氏就任。
(当時国務大臣)、副会長に毛利松平氏就任。

6月1964

会館竣工。国際空手道連盟極真会館を正式に発足。アメリカ、アトランタのジョージア州立大学に招かれ、1ヵ月近く空手のデモンストレーションと指導にあたる。

3月1965

「This is Karate」を出版。17万部発行。
「盗まれたカラ手道」フランスでは海賊版が販売された。

8月1965

中近東地区連盟設立。ヨルダン王室に招かれ、
フセイン国王はじめモハメッド皇太子など、王室の空手指導を行う。

9月1969

世界初の直接打撃制による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を開催。総参加者48名のうち、他流派が32名参加、優勝者は極真門下生の山崎照朝、以後毎年開催。

1月1971

「少年マガジン」に「空手バカ一代」連載開始。

10月1972

当時、皇太子であったスペインのカルロス国王が来館。名誉三段を贈る。

5月1974

ホテルオークラにおいて、シャーラム・イラン皇太子夫妻に演武を披露。
同皇太子に名誉二段を贈る。

11月1975

第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催。
(以後、4年に一度開催)

5月1976

第1回世界大会の記録映画「地上最強のカラテ」封切り。(空前の大ヒット)
世界30カ国で上映。800万人を動員。

12月1976

「地上最強のカラテpart2」封切り。

7月1979

東京・麻布のソビエト連邦大使館において大演武会を行う。

11月1979

第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催。(日本武道館)
60カ国の参加を得て、146名の選手で争われ、名実ともに空手オリンピックの名にふさわしい熱戦を展開。

12月1979

ヨルダン王室よりメリット勲章を授与される。

1月1980

第2回世界大会の記録映画「最強最後のカラテ」封切られる。

7月1981

サウジアラビアのファイサル皇太子殿下が極真会館を訪問。
本部黒帯の演武を堪能され、指導員の派遣を要請される。

2月1983

フランス空母ジャンヌダルク号艦上にて演武会。

6月1983

共産圏で初の極真の大会、第1回ハンガリー選手権大会が開かれる。

12月1983

ネパール皇太子ディレシドラ殿下が来日、演武会が催される。

1月1984

第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催。(日本武道館)

1985

ブラジル政府より文化功労賞を授与される。

1985
November

スペインバルセロナにて、サマランチIOC会長と対面。

11月1987

第4回オープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催。(日本武道館)
76カ国 207人の選手が出場。

9月1988

日本にすべての都道府県に極真会館組織が確立。

7月1989

日本の空手の水準を高めるため「流派を超えてすべての強い選手が極真会館主催の全日本選手権大会に出場し、互いに研鑽しよう」との呼び掛けを行う。

5月1990

ソ連ウクライナ共和国で開催された武道フェスティバルに代表団を派遣。

11月1991

第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会を開催。(東京体育館)
105カ国、250名の選手が参加、熱戦を繰り広げる。
自ら「最後の演武」といい『円転掌の型』を披露する。

4月26日1994

肺癌ため聖路加病院で死去。享年71歳。

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